母校のコンサートへ

 

10月1日、母校の名称がなくなって、新しくなった大学の吹奏楽部のOBOG会設立記念演奏会に行ってきました。

僕の母校は大阪市立大学なのですが、大阪府立大学との府市統合があり、大阪公立大学になったので、それぞれの吹奏楽部のOBOG会も合併することになりました。

実は、僕が大阪市立大学のコンサートバンド(吹奏楽部)に在籍したのは、学生生活の最初の半年くらい。大阪市大のコンバンといえばマーチングというくらい、それを目当てに入ってくる人もいるらしいのですが、僕にはどうも動きながら吹くというのが性に合わず、退部のキッカケになりました。それ以上に、ロックバンド活動に力を入れていたので、さすがに両立するのが難しくなったというのもあります。退部はしたものの、その後もコンサートの照明や舞台設定や進行など、裏方として関わっていたので、同期や先輩達とのつながりは残っていたし、後輩たちからは「(楽器を演奏しない)謎の先輩」と認識されていたようです。

コンサートの会場はクレオ大阪中央ホール。天満橋駅で京阪から大阪メトロ谷町線に乗り換え。GoogleMap先生によると、谷町線の一番うしろの車両が改札に近くて良いらしい。で、乗り込んだら、ちょうど席が一つ空いていたので、そこへ。腰椎の具合が悪くて、10分以上立ち続けると足が痺れてくるので、座ることができて「やれやれ〜」と一安心。

ホッとして気が付いた。左方向からものすごい視線を感じる。かなり見ている。なに?だれ?と恐る恐る左を見ると、一人飛ばした左の女性は、同じコンサートに向かう大学の後輩でした。事前に、SNSで「向かってます」という投稿を見ていたのですが、まさか同じ地下鉄の同じ車両の同じシートになるとは思わず「おおおお!」でした。さらに、すぐ左隣りの人も後輩でこちらは僕に気が付かず。しかも僕も気が付かず。お二人とも、僕の講演を見に来てくれた事があり、それ以来の再会でした。

久しぶりの吹奏楽コンサート。OBOGバンドということで、限られた練習時間の中で、あそこまでまとめるのはタイヘンだったと思います。個人的には「ゴジラ組曲」が良かったと思います。

ここで僕の吹奏楽遍歴をご紹介。

中学時代は、ガッチガチのスパルタ吹奏楽部だったし、2,3年時の顧問は僕と同じトロンボーン奏者だったので、おかげで基礎はガッチリ備わりました。が、あんまり楽しかった記憶はなく、顧問に怒られないように必死に演奏していた感じでした。練習時間も長かったし内容もキツくて、やめていく部員も多かったです。最後のコンクールまで残れる同期は3分の2くらいだったような気がします。

高校時代は、新設校の吹奏楽部で部員不足&楽器不足。当初の顧問も専門は声楽だったし、2,3年時の顧問は国語の先生(元吹奏楽部員)だったので、指導者というよりは一緒に演奏している人でした。生徒達が選曲や構成や指揮をして、好き勝手できた部活でした。

僕は最後、トロンボーンだけでなく、指揮もしていたのですが、編曲やアレンジをする楽しさにも気付けて、音楽的にはとても進歩させてもらう機会になりました。その時に、吹奏楽曲の良さにも気づけました。後輩にものすごく熱心な人がいたのにも影響されました。中学までは、オーケストラ曲の吹奏楽アレンジ曲を演奏することが多かったのですが、新設校では常に人数不足気味。吹奏楽向けの楽曲を演奏するので精一杯。ところが、吹奏楽向きに書かれた曲のほうが、響きや和音編成がキレイな気がしてきて、アルフレッド・リードやジェイムズ・スウェアリンジェンの吹奏楽曲をよく演奏しました。

僕が卒業した時に、新設時に就任する予定だった吹奏楽顧問が赴任してきて、その後は顧問主導の部活になってしまったようです。浪人時代、同じ高校の補修科に通っていたので、文化祭ではコソッと紛れ込んで吹かせてもらいました。大人数のステージでトロンボーンを吹いたのは、あれが最後になりました。

大学では、もとからロックバンドに専念するつもりだったのですが、なんのご縁か授業で座った席のすぐ近くに「コンサートバンドに入る」という人がいたので、いろいろ聞いているうちに見学に行くことになり、体験入部という流れになり…でした。すでにトロンボーン枠は埋まっていて、入るならサックスへとなりそのままアルトサックスを吹くことに。

コンサートバンドの練習日が火木土だったか月水金だったか記憶は定かではないけど、その間にロックバンドの楽曲の練習もして、デモテープも作って、オーディションも受けに行ったりで、しかも単位を早めに揃えておいた方が後が楽ということで、一回生の間は授業もほぼ全部出ていたので、とにかくバッタバタしていた印象。7月20日頃夏休みに入った頃にはスッカリくたびれていて、そのままコンサートバンドの夏合宿を欠席して、合宿明けの練習日に、今で言う熱中症になり、そのままズルズルと退部という流れに。

当時は、少人数バンド編成の、それも最小限のトリオ編成の緊張感や即興性に興味があって、大編成の演奏感覚が欠落していた時期でもありました。大人数編成の中に埋没する自分に違和感もありました。こんなわけで、僕の吹奏楽経験は、演奏する側としては、あの時点でオシマイになってしまいました。

今は、人前で演奏する機会はないので、好きに聞いて好きに弾いて、音楽を楽しんでいます。たまにヤフオクやメルカリに出品されているトロンボーンを眺めて、「どうしよ?」とボーッとしたり、ポチッとしかけて「おっとっと。危ない危ない」なことがある程度です。

大阪市大のコンサートバンドは、合併前の所属学生は10人前後しかいなかったと聞いています。100人規模でいた部員がそんなに減るとは…ですが、学生生活もあの頃とは様変わりしています。長い練習時間が必要な部活は、どうしても関わりづらいのかもしれません。府立大学と合併したことで、編成規模は確保できそうですが、なによりも部員の皆さんが「演奏するって楽しいな」という時間をもてることを願っています。


OBOG演奏会の最後は、「六甲おろし」で締めくくられました。コテコテなノリは健在のようです。

そういえば、「六甲おろし」とコンサートバンドのことで思い出したのが、1988年のプロ野球の「10.19」。

大阪市立大学は、地元学生が圧倒的に多かったのですが、とくに河内地方の学生が多く(目立ってただけ?)、コンサートバンドのメンバーの中には、藤井寺球場での試合の時に応援で吹きに行っていた人もいたように記憶しています。

そんな土地柄の1988年のプロ野球パ・リーグは、最後の最後で、近鉄が西武を逆転して優勝か?という展開に。そしてあの「10月19日の対ロッテとのダブルヘッダー」という伝説の一日を迎えたのでした。試合が川崎球場だったので、応援部隊は部室で観戦。14インチの小さな画面を大勢で固唾をのんで見守っていました。そこになぜか僕も立ち会っていました。度々中断される第二試合に、残り時間との兼ね合いもあり、部室のイライラは頂点に。部室でも「なんやあれ?」「引き延ばしてるんとちゃうんか?!」と球場と同じようなヤジ。結局、時間切れ引き分けで近鉄バファローズの優勝は無くなったという日でした。あのガックリ感たるや、おそらく球場と同じレベルだったのでは?と思います。その翌年に、「仰木マジック」で近鉄は優勝するのでした。が、日本シリーズで巨人相手に3連勝の後の4連敗という、これまた伝説的な負けを喫して、日本一を逃すのでした。

いろいろ思い出した、OBOGコンサートでした。


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