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バッテリーの交換

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  交換前 交換後 退院後、ずっとインターフォンの子機の調子が悪く、ピンポンが鳴って、「通話」を押すと途端に切れる。玄関で呼び鈴を押した人には、その一切が伝わらず「あれ?留守かな?」になるらしい。 リビングにあるモニターは問題がないので、どうやら子機単体の問題。そういえば…で思い出したのが、購入以来一回も交換していないバッテリーのこと。 家を建てた時に付けたインターフォンは1階でしか反応できず、2階にいたら聞こえないし、反応できないから不便。子機付きのインターフォンがあることを知って、自分でそれに付け替えたのが、数カ月後だったか数年後だったか、もはや不明。 たぶん、バッテリー交換は、あれ以降一回もしていないはず。 さっそくお値段は…と調べてみると、 純正バッテリー は、2,000円ちょい。 「互換品」の コレ は750円くらい。 正確さや精度を求めるわけでなし、訪問人の確認と簡単な会話ができればOKなので、「ダメでもともと」で互換品を購入。 交換から一週間たったけど、まったく問題なし。以前のように安定して動いてくれています。どうやらバッテリーの寿命が来て、充電しても充電しても電気を貯められなくなっていたようです。それで、通話すると、すぐ切れていたんだと思います。 はてさて、次の交換は、いつになるのでしょうか?

静岡市へ

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  和子さんの長年の盟友で、かつ彼女が居なかったら、僕と和子さんは出逢ってなかったという、麻子さんの結婚式in 静岡市に、京都から家族3人で参加しました。 退院後、これまでの最長移動は、8月19日に大阪にあるかかりつけ内科への受診で、大阪の北浜まで往復した時。それ以外は、地元の京都市や入院していた宇治徳洲会病院のある宇治市から出ることはなく、通院とリハビリ運動、買い物でエリア内をウロウロするのみ。 そんな僕が、静岡市の三保松原まで出掛けました。この予定は退院前から入っていて、結婚式とパーティーに参加することを、一つの目標にリハビリしていたと言っても良いかもしれないです。 今回は、家族3人が招待されたので、自家用車で静岡市清水区まで移動することに。往路のルートは、宇治西IC→(京滋バイパス)→瀬田東JCT→草津JCT→(新名神)→(伊勢湾岸道)→豊田JCT→(東名)→清水ICという経路で移動。ずっと以前、家族で ナガシマスパーランド に遊びに行った時が、自動車での東行き最遠地だったのですが、それが名古屋を超えて、浜松を超えて、静岡市まで行き、自動車での移動最長記録になりました。名古屋を超えると、高速道路はとても穏やかな車線変更で、最高速度オーバーも名神高速道路エリアに比べると、遥かに少ないような気が…気のせいか? 途中、新名神の 鈴鹿PA でトイレ休憩。食事も取ろうかと思ったら、あまりの混雑ぶりに、次の伊勢湾岸自動車道の 湾岸長島PA で食事をすることに。 名古屋も近いので、味噌カツ丼をチョイス。味噌汁がついてくるかと思ったら、フニャフニャのうどん。ううう…うどん県人にとっては、全く別物のきしめんの方が割り切れる。とはいえ、鈴鹿PAの混雑ぶりから一転。のんびりムードの湾岸長島PAでゆったり休憩でき、次の休憩は、 浜名湖SA 。 新卒社会人ホヤホヤの僕が、研修で1週間過ごしたのが 静岡県立三ヶ日青年の家 。そこから東へ真っ直ぐ2.5kmの浜名湖SA。研修のメニューにボート研修があり、みんなで漕いで湖の沖に出たところで、ボートから浜名湖に飛び込んだのは、楽しかった思い出の一つ。 三ケ日(みっかび)みかん!これも懐かしい。三ヶ日青年の家の後は、西気賀にある社員寮から、細江工場へ通いながらの工場研修が続きました。思えば、あの1ヶ月間が最後の学生気分と社会人への長い入口...

PlayStation Portal買いました

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久しぶりの投稿がテレビゲームの話。ケガの具合は?リハビリは?仕事は?いろいろ書かなアカンことはあるというのに、なぜかテレビゲームの話しから。書きやすいことから書くということです。 そもそもの始まりは、娘がタイに留学していた頃に話が遡る。2023年5月の大型連休中にPlayStation5(PS5)を購入した僕( この時 )。さっそくグランツーリスモ7(GT7)をインストールして始めたのでした。「PS5買ったよ」と娘にLINEすると、娘から「PS5がああるのなら、『 原神 』のアカウントを作って、帰国する前に少し始めておいて欲しい」と返信が来る。さっそく「原神」をインストールしてゲームアカウントを作って、モンドからスタート。攻略サイト等を見ず、課金もせず、モンドをどうにか突破。そして、璃月ステージに入って事件が解決に向かい始めた頃、娘が帰国。それ以降は、娘がどっぷりハマるゲームになったのでした。 時は流れて、2025年10月。あれから、僕の事故&入院もあり、娘の就活も終わり、次の4月からは、我が家から通える可能性が極めて低い勤務先。ここで大問題が発生していたことに気がつく。 成り行きで、一台のPS5を父娘で使っているけど、ここまでは大きな問題じゃない。問題は、GT7は僕のPSアカウントで、原神も僕のPSアカウントとゲーム独自のアカウントで娘が遊んでいる点。原神は、娘しか遊んでない。原神はこのあと数年は続くであろうゲーム。就職後はPS5(もしかしてらPS6?)を買ってでも「その先」が知りたくて続けたいゲーム。ところが、「原神」は僕のアカウント。つまり、家に置いているPS5から、娘が原神だけどを切り離して、他のPS5に移せない状況。 結論をいうと、もう一台PS5を買って、それぞれがそれぞれの家でGT7と原神を遊ぼうとすると、どちらかは、イチからゲームを再スタートしないといけないという状況。全車両コレクションまであと2台になったGT7。運転テストもイチから受け直しは、さすがにキツイ。それは、娘の原神も同じ。 なんとかならんか…と思って、思い出したのが PlayStation Portal の存在。一時期は、Amazonで定価の1.5倍くらいの値段が付いていたけど、さすがに最近はほぼ定価。ポイントや何やらで、少し安くなるくらい。もう1台PlayStation5を買うことを考え...

退院しました

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「 退院しました」というタイトルで書きながら、すでに退院から2週間経っている今日、8月20日にこれを記録しています。 入院していた時、退院は大きな目標でした。むしろ、これ以外の目標はなかったかもしれません。退院に際しては、体力や生活動作に関するテストがあり、それの基準をクリアーしないと退院させてもらえないので、それに向けてリハビリを頑張りました。もちろん、退院後の生活に困らないためという目的もありますが、それもまずは退院!となっていました。 そして、退院前の数日にわたって、基礎動作や生活動作、動きの可動範囲を確認するテストがありましたが、全部クリアーして、8月6日に晴れて退院となりました。 約5が月ぶりの我が家。入院前から変わったところは少なく、ほとんどは変わらず同じ。物が多くてゴチャゴチャした感じも同じ。物を取り出すにも、ギリギリの収納なので、他の物を倒したり引っ掛けたりしないように出し入れ。これが健康なら全然問題なかった作業なのに、事故後の不自由な身体だと本当に難しい。高い場所や低い場所に収納している物も、出しにくいし片付けにくい。なんてことなかった作業が、一変してタイヘンな作業に。 とはいえ、退院後数日は、気持ちも高ぶっていて、元気に乗り越えられました。 が、お盆休みに入ってから、まず身体にきたのが家内温度差。自分の部屋やリビングは涼しいけど、廊下やトイレは暑い。退院してからも、朝の外歩きは続けていたのですが、汗をかいて涼しい部屋で水分補給をして、歩いたデータを確認したりしていると、いつの間にか汗が引いてヒヤ〜ッと。 お盆真っ只中で風邪を引いてしまいました。ちょうど五山の送り火のある8月16日がピークでした。さいわい熱は37℃を超えずでしたが、クシャミと鼻水がひどかったです。 週明けから、朝歩きを再開しました。我が家は丘陵地の中腹くらいに建っています。丘の上、丘の向こう、さらにもう一つむこうの丘の上。と少しずつクリアーするのを目標に歩いています。せっかくの京都市伏見区で暮らしているので、幕末など歴史上の有名地を目標場所にして歩くことも考えています。 リハビリ病院を退院して、通院リハビリ病院に移るために受診した際、レントゲン写真をじっくり見る機会がありました。改めて、自分の身体がこんな事になっていたのか?!を知りました。とくに骨盤は金属だらけ。バッラバラになって...

荷重制限が解除されました

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7月3日のレントゲン撮影で、骨の生成具合が確認され、順調に進んでいるとの判断でした。それに伴い、両脚にかかっていた荷重制限が解除され、歩行練習が一気に進むことになりました。 荷重制限が解除されたということは、片足立ちもして良いことになり、つまり何も気にせず歩いていいということです。とはいえ、これまで懸架装置で吊るしてもらったり、手すりを持つことで、体重を足から分散させていたのが、一気に足にかかることになり、最初の2日間は歩くだけでヘトヘトでした。 荷重制限解除から5日後の歩く様子です。少しスムーズに歩けるようになりました。最初は、左膝が外に開いて、足首もグラグラしていました。 1.ヘソの下にある丹田を軸にして、2.尻の穴を締めて、3.かかとから着地して母指球で後ろに蹴り出す、という3点を意識すると、改善しました。 加えて、理学療法士さんに足首の柔軟性を高める、マッサージをしてもらったのも効果があったのでは?と思います。 7月7日の昼ご飯は、七夕そうめんがメインでした。そうめんの上には京都らしく鱧落としの梅肉添えがのっていました。奥にはいなり寿司も。そうめんも好きだけど、いなり寿司はもっと好きな僕には、全解除お祝いにも思えました。 まだひと月近くはリハビリが必要だと思います。改善は少しずつですし、頭打ちになる時期もあります。が、きっと元に戻れると思って、筋トレや歩行訓練に大汗流しながら、ストレッチで思いっきり伸ばされて「ヒィィ〜!」と叫びながら、毎日頑張っています。

しばらく入院しています

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  しばらく更新が止まったままでした。3月10日、宇治市にかかる宇治大橋を背景にこの写真を撮って、数時間後には、 このような姿に。交通事故に遭い、かろうじて一命を取り留めたようです。骨盤のあちこちを骨折したのをはじめ、太もも、肘、鎖骨など、全身にわたって骨折しました。 自転車はこのとおりのバラバラになりましたし、 ヘルメットも原型を留めていない状態です。とはいえ、このヘルメットのおかげで、脳へのダメージと臓器へのダメージは無かったのが救いでした。 3月23日にICUから一般病棟に移り、そこから6月5日まで入院しました。 4月中旬から下旬にかけて、謎の発熱が続きました。褥瘡からの感染症で、おしりの褥瘡の奥に膿がたまり、それが発熱の原因になっていると判明して、急遽、手術。一歩遅れると敗血症だったようです。その後の経過は順調でした。 5月15日には、担当医から「治療はすべて終了しました」と説明を受けました。そこから転院手続きに入ったのですが、担当者の出張など、不運が続き、実際に転院できたのは6月5日。 その間に、両下肢免荷(両足ともに体重をかけられない状態)から2/3荷重をかけて良い状態にまで変化し、 こういうことも可能になりました。膝や股関節の可動域も、だいぶん広がりました。約2ヶ月間寝たきりの生活だったので、全身が硬化していたのと、筋力が落ちてしまっていました。 6月5日に急性期病院から回復期病院に転院して、今はリハビリ中心の毎日です。まだ、歩くには歩行器や平行棒が必要です。自分一人では歩けません。それでも、事故当初の状態から比べると、だいぶん進歩したと思います。 退院まではまだまだ時間がかかると思いますが、時々、経過を報告します。

広島市へ

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  講演で広島市を訪ねました。広島駅で降りたのは、島根県邑南町での講演の時( この時 )以来。広島県での講演で広島を訪れたのは、2019年10月以来。その時は、東広島市での講演だったので、新幹線の東広島駅で降りたはず。邑南町の時は、広島駅の北出口に出たので、南出口に出たのはかなり久しぶり。 到着して、まずは昼ご飯。広島といえばお好み焼きじゃろ。というわけで、いろいろ調べて「ここにしようかな?」と思った店に行くと大行列。3,4軒並んでいる真ん中あたりの店に空間を発見。「いけますか?」と聞くと、「見といてください」とメニューを渡される。食べるのは、いつも一番シンプルなやつ。先に金を払ってカウンターへ。 焼いているのは東南アジアからの若者男性たち。時々、なんか喋っては笑ったりと、けっこうマイペースで焼いている。この感じ、タイの屋台で食べてるみたいで好きです。 お好み焼きとは、一見同じように見えて、本当にいろいろ。ざっくり二分すると、広島タイプと大阪タイプの2種類だけど、キャベツの切り幅や肉の並べ方でも、少しずつ味が変わるし、揚玉の有無やその材料、調味料ドバッと入れるところもあるし、麺の硬さや太さでも変わる。 で、僕が食べたのは、タイの屋台で食べているような味でした。味よりも、焼いている人の個性が勝って、味はよくわからんかったです。タイの屋台も、周囲の雰囲気や作っている人、同席している人なんかの刺激が強すぎて、同じようなカオマンガイを食べても、味の差はよくわからんのが常でした。 とりあえず、腹が膨れたので、講演会場まで移動。 広島駅は絶賛工事中。地下道に入ると冷やーっとした空気。ところが、地下から出ると、暖かい…を通り越して暑い。一番上の写真のようなモノもできていて、いったい、自分のいつの記憶から更新されてないのか?と思いました。 京都人あるあるですが、駅から出ると、まっすぐ歩くと真南か真北、あるいは真西か真東に行けると思い、つい歩き始めてしまうのです。他の町は、それではアカンのです。猿猴川沿いの、今、地図で調べると出口9から出て、そのまま川沿いを歩いてしまいました。 少し遠回りにはなったのですが、猿猴橋という存在を知る機会になりました。 それでもって、遠回りにはなるけど、時間には余裕があったし、なによりも市電をたくさん見ることができる楽しみがあり、全然無駄にはなり...